君がいるだけで
(Sideイワン)
大人になりたい。
常日頃から、イワンはそう思っていた。
いつも自分の傍らにいてくれる、ハインリヒ。
ずっと側にいてくれて、寝顔を見つめてくれたり。
それだけで、イワンはホッと心が安らぐ。
でも、ハインリヒの心は・・・?ハインリヒの心は、誰が慰めるのだろう??
綺麗な氷色の瞳を、悲しい色で染めている、この愛しい人を。
大人になりたい。
自分が大人だったら、ハインリヒを抱きしめて、キスをして。
その心を慰めてあげたい。
だからイワンは、ギルモア博士に頼んだ。
『博士。ずっと大きくしてなんて言わないよ。少しの間でもいいんだ。ボクは、大人になりたい』
友人のコズミ博士と協力して。
博士は、イワンに小さな薬のビンを渡してくれた。
「イワンや。このクスリは、お前を大人にしてくれる薬じゃ。身体から幽体を離脱させ、自分の思うままに実体を持たせてくれる。しかし・・・幽体離脱は心身ともに疲労が大きいものじゃからな。その疲労に耐えられなくなった時が、お前が元の身体に戻る時じゃよ。薬は一回分しかない。大切に使いなさい」
今が、この薬を使うときだとイワンは思う。
戦いが終わった後、ハインリヒは何時にも増してボーっとしている。
瞳は、疲れ切っている。
抱きしめたい。そう思う。
今日、ハインリヒはフランソワーズに家から追い出され、街に出掛けてしまったから。
初めて会う誰か、として。
大人の男として、ハインリヒの前に立ちたいと。
イワンはそう思った。
薬を飲んだイワンの意識はフワリと宙を飛び、誘われるように街に向かった。
上空からハインリヒの姿を確認し、イワンは人気のない路地裏へと入り込む。
そこで彼は、大人になった自分を想像した。
身体が、ぐんぐんと大きくなったような気がして。
手のひらを見てみると、大人の手の大きさになっていた。
実体があるのか不安になって手近にある壁を触ると、ちゃんと、触ることが出来た。
この身体なら、ハインリヒを抱きしめてあげられる。
そう思い、イワンは大人になった自分に喜びを感じた。
路地裏から表通りに姿を現すと、視線の先にハインリヒを見つけた。
母親に抱かれている赤ん坊を見て、優しく微笑むハインリヒ。
(今、ハインリヒはボクのことを考えてくれてるのかな・・・?)
思いながら、イワンはその優しい笑顔をじっと見つめた。
ふと。ハインリヒが、イワンに視線を走らせる。
視線が合った瞬間、イワンはニコニコと笑いながら、ハインリヒに近付いた。
「こんにちわ。綺麗なお兄さん」
ハインリヒの側近くまで接近して、イワンはずっと言いたかった言葉を口に出した。
「これから、ボクと一緒にデートしない?」
そして今。
イワンとハインリヒは、一緒に街を歩いている。
『これから、ボクと一緒にデートしない?』
イワンをマジマジと見つめた後、ハインリヒが小さく、けれどもハッキリと頷いたから。
ハインリヒの隣で、ハインリヒを見下ろすことが出来るのが嬉しい。
抱きしめようと思えば、その細い身体を容易に抱きしめることができるのが。
ニコニコと笑いを止められないまま、イワンはハインリヒに問い掛ける。
「キミ、名前は?」
「・・・アルベルト」
間が可愛いな、とか、バカみたいなことを考えながら、イワンは白々しく言った。
「ふーん。素敵な名前だね。キミにピッタリだ」
「お前は・・・?」
「当ててみて」
ほんの軽い気持ちで、そう言っただけなのに。
ハインリヒは、躊躇いがちに、
「・・・イワン?・・・」
イワンの名前を呼んでくれた。
「・・・・・・」
イワンは、じっとハインリヒを見つめる。
名前を呼んでもらえることが、こんなにも嬉しいなんて。
微笑みながら、イワンは答えた。
「当たりだよ」
それから、ハインリヒに向かって、恭しく一礼をした。
「ボクの名前は、イワンだ。よろしく、アルベルト」
「・・・あ、ああ・・・」
ぎこちなく返事をするハインリヒの身体に手を伸ばし、イワンはその細腰を抱いた。
「ええっ!?」
動揺の声をあげるハインリヒに、イワンはしょぼんとしたポーズを取る。
ハインリヒが、押しに弱い、というコトを知っているから。
「ダメかな?折角のデートなんだから、これぐらい・・・」
しおれた声でそう言うと、
「いやっ、ちょっと驚いただけで。お前の好きなようにすればいい」
仄かに赤くなりながら、ハインリヒが答えた。
その様も、愛しい。
イワンはニコリと笑う。自分が見せることができる、一番飛び切りの笑顔で。
「ありがとう。一日、ボクの好きなようにキミをエスコートさせてもらうよ?」
そして。二人の奇妙な一日が、幕を開けたのだ。
二人は、まるで恋人同士のように、街を歩く。
イワンは慣れた手つきでハインリヒの腰を抱いていたが、ハインリヒは緊張しているのか、ギクシャクとした動きを見せていた。
そんなトコロも初々しくて可愛いな、と、イワンはやっぱり嬉しくなる。
思えばこれが初めてのハインリヒとのデートで。
ハインリヒに抱かれて街を散歩したりするのとは、全然ワケが違う。
本当に本当の、デートなのだ。
ハインリヒの瞳が、イワンをまぶしそうに見上げる。
その瞳は、穏やかだ。
哀しみの色に染まっていないことが、嬉しい。
イワンが優しい気持ちで、ハインリヒを見つめると。
彼ははにかんだような表情でになり、そっと視線を伏せた。
クスリ、と小さく笑い、イワンはハインリヒに提案する。
「ボク、映画を見に行きたいんだけど。キミはどうかな?」
ハインリヒが、頷いた。
「じゃ、行こうか」
ニコニコと微笑むイワンに、ハインリヒが申し訳なさそうに告げた。
「イワン」
「何?」
「腰に手を回すの、やっぱりやめてくれ」
「・・・・・・(どうして!?)」
ショックのあまり言葉も出ないイワンに、
「腕を組もう、イワン。それなら、大丈夫だから」
赤くなりながらそう言う、ハインリヒが愛しい。
「アルベルト、キミって、本当に可愛いね」
心の底から正直にそう言って、イワンはハインリヒの腰から手を離した。
ハインリヒがそっと、イワンの腕に自分の腕を絡ませてくれる。
ハインリヒの方から腕を組んでもらえる日が来るなんて、夢のようなことで。
イワンは、心の底から幸せな気分になる。
そして。ハインリヒを連れて、イワンは映画館に入った。
恋人と一緒に恋愛映画を見に行く、というベタなデートコースを、一回辿ってみたかったのだ。
イワンが選んだのは、少し切ないラブストーリーで。
隣で鼻を赤くして涙をこらえているハインリヒを見て、イワンは思わず笑ってしまった。
意外な一面だと思う。
「アルベルトって・・・クールそうなのに、案外涙もろいんだ?可愛いね」
耳元で囁くと、ハインリヒは可哀想なほどに赤くなってしまった。
手を伸ばして、ハインリヒの手にそっと触れると。
頬を赤くしたままハインリヒはイワンに視線を走らせて、照れくさそうに微笑んだ。
それからハインリヒはスクリーン視線を戻し、そのまま黙って映画に見入った。
イワンは、そのハインリヒの横顔だけを・・・黙って見つめた。
映画を見るよりも、こうしてハインリヒを見つめていられることが嬉しかったから。
(えーっと、映画の後はお茶を飲みに行くのが定番かな・・・)
近くにお洒落なティールームがあると、以前フランソワーズが話していたことがあった。
記憶を辿り、イワンはその店の名と場所を思い出す。
「ね、アルベルト。甘いものって好きかな?近くに美味しいお茶とケーキのお店があるんだけど、一緒に行ってくれない?」
そう言うと、ハインリヒは嬉しそうに笑った。
「実は・・・甘いもの、好きなんだ。皆には笑われるけどな」
薫り高い紅茶を飲み、ケーキを食べながら、ハインリヒは頬に穏やかな微笑みを浮かべる。
満足げなその笑顔に、イワンの頬も自然とほころぶ。
店の窓から差し込んでくる光が、銀の髪に反射する様がとても綺麗で。
(ハインリヒ、ボクのコト、好きだよね?)
思わず聞きたくなって、イワンはハインリヒに訊ねた。
「ねえ。アルベルトってさ、好きな人とかいるのかな?」
色素の薄い瞳が、大きく見開かれた。
「好きな人?」
ニコリ、笑いかけながら、イワンは強く言った。
「そう。知りたい」
まるで気持ちを落ち着けるかのように咳払いを一つして、ハインリヒは答えてくれる。
「・・・いるぞ」
意地悪く、聞いてみたくなる。
「どんな人?」
「いつでもオレを暖かく包み込んでくれる・・・そんなヤツだ」
「ふーん」
「お前に、似ている・・・」
イワンを見つめるその瞳が、優しく揺れる。
思わず抱きしめたくなるような、愛しい表情。
腕を伸ばしかけて、イワンはハッとその腕を引っ込めた。
抱きしめて、自分がイワンだと言うことは容易いけれど。
ずっとこの姿でいられない自分が、今この姿でハインリヒを抱きしめることは罪だと思う。
あんなに抱きしめたいと思っていたのに、いざ大人になってみると抱きしめられない自分が信じられなかったけれど。
手に触れたり腰を抱いたりすることと、抱きしめることは全然違うから。
ハインリヒを抱きしめる代わりに、イワンはハインリヒに微笑みかけ、感謝の言葉を告げた。
「本当に?そんなコトを言ってもらえると、嬉しいな」
ハインリヒは照れたような表情になって、紅茶のカップを口に運びながら窓の外に視線を向けた。
楽しい時間は、あっという間に過ぎていく。
店を出た頃にはもう、すっかり日が暮れていた。
自分のタイムリミットが迫ってきている、ということを、イワンは薄々と感じ始めていた。
「そろそろ、家の人が心配してるんじゃないか、アルベルト?」
もっと時間が欲しい。
そう思いながらも、イワンはハインリヒに向かって微笑みかける。
「もう遅いから、送っていくよ」
月明かりの下、二人は黙って歩いた。
(ハインリヒ・・・もしかして、ボクがボクだって、気付いてくれている??)
聞きたい気がしたが、聞くことができなかった。
歩きながらハインリヒをじっと見つめると、ハインリヒもまた、イワンを見つめていた。
氷色の瞳が、月明かりを受けて宝石のように美しい輝きを放つ。
そして、輝きと同時に瞳に浮かぶのは優しい光。
イワンが好きでたまらない、ハインリヒの優しい瞳の色。
(もう少しだけでいいから、見つめていたい・・・)
その思いだけが、イワンが大人の身体を保つ原動力だった。
(もう少しだけ、キミと・・・)
何とか大人の実体を保ちながら、イワンはギルモア邸の玄関前までハインリヒを送り届けた。
「じゃあね、アルベルト。今日は楽しかった。ありがとう」
名残惜しい気がしたが、もう、意識が赤ん坊の身体に戻って行ってしまいそうで。
イワンはハインリヒにクルリと背を向け、足早にその場を立ち去ろうとした。
「イワン!!」
呼び止める声に、イワンはハインリヒを振り返る。
ハインリヒは、ほんの一瞬だけ躊躇ったように見えたが、形の良い唇は静かに動き、イワンに向かって言葉を発した。
「イワン・・・お前、イワンだろう・・・?」
(ハインリヒ・・・ボクは、キミのイワンだよ)
でも、言う事ができなくて。
もどかしい気気持ちを笑いに紛らわせて、イワンは答える。
「そうだよ。会った時から、そう言ってるじゃない?」
「違う・・・!」
ハインリヒの眉が、もどかしげに顰められる。
まるで、何かを訴えかけるかのように。
「そうじゃなくて・・・」
腕を組み、瞳を閉じて。ハインリヒは、何か言葉を探しているように見えた。
そして、彼の人の瞳が開かれた時。
その瞳は、真っ直ぐにイワンを見つめた。
「・・・お前は・・・『オレの』イワンだろう?」
真剣そのものの眼差しで、ハインリヒはイワンに問うた。
イワンは、まず驚いた。
(ハインリヒが、知っていてくれた?)
それから、心の中に、じわじわと喜びが湧き上がってきた。
他のどんな事よりも。
姿形が違っても、ハインリヒがイワンをイワンだと分かってくれたことが嬉しかった。
大人になって、ハインリヒとデートできたという事実などより、ずっと。
愛しさが、こみ上げてくる。
ハインリヒの頬に手を伸ばし、両手でその白い頬を挟むと、ハインリヒの瞳は、やっぱり真っ直ぐにイワンを見つめていた。
イワンは彼の瞳を覗き込む。
何処までも透き通った瞳の中には・・・イワンだけが映っていた。
大人びた表情をした、イワンが。
「好きだよ・・・ボクのハインリヒ」
『アルベルト』ではなく。いつものように、『ハインリヒ』と名前を呼ぶと。
「イワン・・・」
ハインリヒの唇が、イワンの名前を綴った。
「黙って」
キスしたい。
そう思った瞬間、ハインリヒに唇を寄せていた。
二つの氷色の輝きが消え、イワンはハインリヒが瞳を閉じたことに気付く。
もう、躊躇いはなかった。
イワンはハインリヒの唇に自分の唇を被せると、深く、口付けた。
ピクリ。
華奢な肩が微かに動いたが。
彼は瞳を閉じたまま静かに、イワンにその身を預けてくれた。
イワンがようやく唇を離すと、
「・・・っ・・・」
ハインリヒは少し苦しそうに息を吐き、イワンの身体にもたれかかった。
「ゴメンね」
その様を見て、一言だけ謝ると。
イワンはハインリヒの頬に触れていた手を離し、今度は両腕でハインリヒを抱きしめた。
ずっと、こうして抱きしめてあげたかった。
自分の腕の中に包み込んで、切なさも、不安も、ハインリヒを悲しませる全てのものを忘れさせたかった。
腕の中で、ハインリヒの吐息が聞こえた。
安堵しているような、静かな吐息が。
そして、ハインリヒの腕がイワンの背中をギュッと抱きしめてくれる。
どうしようもなく、『好き』だという気持ちが胸の中に溢れて。
「ハインリヒ、キミが好きだよ。昔も、今も、これからも、ずっと・・・」
イワンは腕の中の愛しい人をきつくきつく、抱きしめた。
叶うものなら、このままずっと、彼を抱きしめていたかった。
ずっとこの姿のままで、抱きしめてあげたかった。
でも、もう限界だった。
抱きしめていた腕を離して、イワンは再度、ハインリヒの瞳を覗き込む。
その美しい瞳に映る自分の姿を、忘れまいとするかのように。
「忘れないで。もう、二度と会えないけれど。ボクは何時だって、キミの側にいるから」
最後にハインリヒの左の頬をそっと撫でた時、身体が何処かに吸い込まれていくような感覚がイワンを襲って。
気が付くと、イワンはギルモア邸の自分の揺りかごの中にいた。
イワンは静かに腕を持ち上げて、自分の手の平を眺める。
その手の平は・・・小さな、赤ん坊の手の平だった。
その手の平を眺めたイワンの瞳から、一粒だけ。涙が、零れた。
カチャリ。
ドアが開く音と共に、ハインリヒがイワンの揺りかごのある部屋に入ってくる。
イワンは何も言うこともできず、ただ、眠っている振りをした。
上空から、ハインリヒの声が降ってくる。
「イワン。今日は、ありがとう。・・・楽しかったぞ」
(ボクだって、楽しかったよ)
「オレは・・・忘れないから」
(ボクだって・・・忘れないよ・・・)
ハインリヒが今にも泣き出しそうな顔をしているというのに。
何もしてあげられない。
もどかしく思うイワンに、ハインリヒはやっぱり泣き出しそうな顔をしながら、優しく微笑んだ。
「絶対に、忘れないから」
その優しい声を聞きながら・・・イワンは自己の意識を手放し、眠りの時間に入った。
(うん。ボクも、絶対に忘れない・・・)
イワンは、夢を見る。
夢の中のイワンは大人で、ハインリヒを抱きしめてあげることができる。
「イワン・・・お前が大人でなくたって。側にいてくれるだけで、オレは幸せなんだぞ?」
腕の中のハインリヒが、イワンにそう囁きかけた。
『・・・ハインリヒ。キミを抱きしめてあげられなくても、ボクが側にいるだけで幸せだって、キミは思ってくれているの?』
訊ねると、ハインリヒは優しく微笑んでくれた。
「お前が赤ん坊だとか、そんな事は関係ないだろう?お前がどんな姿をしていたって、オレはお前が好きだぞ、イワン?お前が、オレの全てを好きでいてくれるように」
イワンは、夢を見る。
イワンは赤ん坊の姿だけれど・・・でも、ハインリヒが側にいてくれて。
自分も、ハインリヒの側にいて。
それだけで、幸せな夢を・・・。
『ずっとずっと大好きだよ。・・・ボクのハインリヒ』
揺りかごで眠るイワンの愛らしい頬に・・・穏やかな微笑みが、浮かんで消えていった。
〜END〜
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待ってくださっていた方、お待ちどうさまでした。
「君がいるだけで」のイワンサイドのお話です。
何だか、ハインリヒサイドのほうが上手く書けたような気がしないでもないのですが、
イワンに感情移入して、ハインへの愛をたっぷりと込めて書いたつもりです。
青年イワンは良いですのう・・・。ハインより背が高いんで、ハインを抱きしめても絵になりますvv
赤ちゃんや少年だと、思いっきり背伸びしてチューとかになっちゃいますしね。
念願の青年イワンを書けて、憑き物が落ちたような気分です(笑)。
また書けるといいな、と思いつつ、今回はおしまいです〜。