第一話



 目の前で眠り続けるその顔は、怖いぐらいに穏やかだった。
 彼が放っていた生命の輝きが、全く感じられないほどに。

 神などこの世に存在しないという事を、ハインリヒは知っていた。
 もし存在するとしても。
 祈りは、決して届かない。
 その証拠に、かつて自分は自分にとって最も大切な人を失っているではないか。

 それなのに。
 今、ハインリヒは祈っている。
 目の前で眠る、この青年の覚醒を。
 けれどもやはり、祈りが届くことはなく。
 青年はただ、眠り続けるだけだ。



 ふう、と小さくため息をついて、ハインリヒは座っていた椅子から立ち上がった。
 窓に近付き、透明なガラス越しに空を見上げる。
 まるでハインリヒの心を映し取ったような鈍色の空。

「アルベルト」
 何処からか自分の名を呼ぶ声が聞こえたような気がして。
 何気なく窓ガラスに映る自分の姿に目をやったハインリヒは、言葉を失った。
 そこに映っているのは、紛れもなく自分自身だった。
 しかし、その瞳の色は・・・深い、紅。
 そして褐色の肌。

「アルベルト」
 ガラスに映る自分が、勝手に口を開く。
 ゆらりとガラスが揺れたように思えて。
 ガラスの中から、腕が伸びてくる。
 長い指が、ハインリヒの頬に触れた。
 背筋が凍りそうなほど、冷たい、指が。
 腕だけでなく。
 スルリとそれは窓ガラスを抜け出し、ハインリヒに向かって口唇の端を曲げて笑って見せた。
「そんなに驚くことはない。お前は、私を知っているはずだ。そうだろう?」
 じりじりと後退するハインリヒの肩を、男が掴む。
「アルベルト」
 低い声で名前を呼ばれる。
 薄い笑いが、男の頬に張り付いた。
「お前は一体、何を願っているのだ?言っておくが、お前達の神とやらは、願いを叶えてはくれない。お前は、それを知っているだろう?」
「言うな・・・っ」
「本当は、お前も分かっているはずだ。祈りなど、何の役にも立たないということを。しかし・・・」
 低く、低く。
 男は笑った。
「私なら、お前の願いを叶えてやれる。お前は、そのことも知っているはずだ」
「・・・オレに、どうしろと・・・?」
 自分の声とは思えないほどに、掠れた声。
 身体を引き寄せられ、冷たい口唇がハインリヒのそれに重なる。
 ハインリヒは思わず、ギュッと瞳を閉じたが。
 しかし一瞬で男は口唇を離し、再度、低く笑った。
「私の物になれ。それが、条件だ。助けてやるぞ?コレも、もう一人の坊やもな」
 冷たい両の手の平で、頬を包まれた。
 紅の瞳が、ハインリヒの目を凝視する。
「どうする、アルベルト?全てはお前次第だ」
 その瞳から、視線を逸らすことが出来ない。
『助けてやるぞ』
 この男が、ジェットを助けるというのか?
 バカな。
 ギルモア博士が精力を傾けても目覚めさせることの出来ないジェットを、この男が?
 しかし心の奥底で、ハインリヒは分かっていた。
 この男なら、それが出来ると。
 理屈ではなく、感覚で。
 ハインリヒは弱々しく男に視線を走らせた。
 男のモノになれば、もう、ジェットには会えない。
 けれども。
 ジェットに、生きて欲しかった。

 側にいてくれるだけで、癒された。
 琥珀色の瞳が、生命の輝きに満ちて輝く様が好きだった。
 瞳だけではない。
 彼の全てが好きで、大切だった。

 だから、決めたのだ。

「・・・分かった。お前の物になろう。その代わり、約束は守ってもらうぞ・・・」
 満足そうに男は笑った。
「良かろう。アルベルト、お前は、何を願う?」
「ジョーと・・・そして、ジェットに目覚めを。それが、望みだ」
「お前の望み、私が叶えてやろう。だが・・・」
 低く、男が喉を鳴らした。
 男が笑っているのだとハインリヒが気付くのに、しばしの時間がかかった。
「その前に、少し遊んでもらおうか?お前の覚悟を見せてもうとしよう」



 口唇を再度、重ねられた。
 2回目の口付けは・・・深く。
 抗うことも出来ず、ハインリヒはその口付けに、じっと耐えた。




〜続〜







桐子響さまに、1944(イク44)を踏んでいただいて、
リクエストしていただきました。
黒44(24前提)でシチュエーションのご希望等もいただいております。
自分の中のヨミ編後の話のうちの1つが黒44+2だったので、
今回そのネタで書かせていただくことにしました。
連載と言う形を取らせていただき、4月中の完結を目指します。
響さまにお気に召していただけるような作品になるよう、頑張ります!!



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