秋の午後
(後編)




 母なる侯爵夫人の前に出ると、彼女が住職を敬う形を取ったのでハインリヒは深々と一礼した。
 それに倣って、ジェットも隣で深く頭を下げた。
「リンクさんは本当にお上手に漕がれるのね」
 ジェットをねぎらった後、彼女は視線をハインリヒに向けた。
「住職がおいでになったので、紅葉山をお見せしてから説法を伺うつもりだったのですよ。貴男達が突然現れるものですから、驚きました」
「それは失礼しました。ジェットと共に、秋空を愛でながらボートに乗っていたら、お姿が見えたので、つい」
 住職は温厚な笑いを浮かべながら、母子の会話を聞いていた。
 一方で、シュヴァルツは上から下から不躾に、ハインリヒを眺めていた。
 その視線に、ハインリヒは居心地の悪さを感じて微かに身じろいだ。
 何もかもを見透かすようなその紅い視線が、ハインリヒは昔から苦手だった。
「ご住職。大変失礼いたしました。さあ、こちらへ・・・」
 侯爵夫人が住職を誘って歩き出し、ハインリヒとジェットも、ごく自然にその後に続いた。

 やがて一同は、山の袂に辿り着いた。
 柔らかな秋の陽射しを一身に浴びて、紅葉は己の存在を主張していた。
 紅葉山からは、滝が流れている。
 この滝の美しさは、この家の自慢の一つだった。
 滝が流れる先は、先ほどハインリヒ達がボートに乗っていた池になっている。
 水飛沫を上げて流れ落ちる滝に、ハインリヒはどこか違和感を持った。
 滝の途中で、妙に水が割れているのだ。
「母上。滝の様子が、いつもと違いませんか・・・?」
 言ってしまってから、ハインリヒはハッとした。
 何か、が滝の途中に出ている岩に引っかかっているのだ。
 それが何かをハインリヒはすぐさま理解したが、言葉に出すことが出来なかった。
「まあ、何でございましょう・・・?」
 侯爵夫人は戸惑いの表情で、住職の顔を伺ったが。
 住職は客の分を守ってか、穏やかに微笑んでいるだけだった。
 ハインリヒはそれが何かを口に出し、しかるべき処理をしなければならないと承知していたが、周りの興を冷ますことを恐れて、言い出せなかった。
「黒い犬ではないか?頭が、下に垂れて」
 突然、ハインリヒの背後から良く通る声が聞こえ、母や侍女達がざわめき出した。
 滝に引っかかっている何か、の正体を、シュヴァルツはいとも簡単に率直に言ってのけた。
 それから黒いスーツが汚れることも意に介さずに滝に入って行き、腕を伸ばして息絶えている犬の身体を降ろした。
「哀れなことだ・・・」
 犬に視線を当てたシュヴァルツの視線に、微かに哀愁の色が浮かんで消えた。
 住職は慈悲心からか、このような提案をした。
「わての目に留まったのも何かの縁ね。塚を作って、埋めてあげるとよろし。回向するよ」
 紅葉見が一転して、亡くなった犬の回向に変わり、回りがバタバタし始める。
「何か花でも摘んできてやるのが良かろう。アルベルト、私に付き合え」
「・・・犬にどんな花を手向けようというんだ?」
 渋々といった風にハインリヒが答え、皆が笑った。
「ご住職に回向してもらえるなど、果報な犬でございますわね」
 侯爵夫人の声を背後に聞きながら、ハインリヒはシュヴァルツと二人、花を摘みに行く羽目になった。

 足早に歩くシュヴァルツの後を追っていくと、彼は目敏く山道に竜胆の花を見つけ、それを数本、無造作に手折った。
「アルベルト」
「・・・何だ?」
 どこか遠くを眺めながら、シュヴァルツは早口に言葉を紡いだ。
「私がもし、急にいなくなってしまったら・・・。お前は、どうする?」
「え?」
 シュヴァルツは昔から、人を驚かすような物言いをするのが好きだった。
 特に、ハインリヒに対しては。
 些細な、なんでもないことに対しても、大袈裟な物言いをして。
 ハインリヒが心配をする様を、面白がっていたのかも知れなかった。
 ・・・馴れているはずなのに、つい、聞いてしまった。
「お前がいなくなる・・・?どうしして?」
 紅い瞳がハインリヒに向けられ、次の瞬間にはサッと逸らされた。
「言えんな、その訳は」
 ポトリと。
 墨汁が一滴落とされて。
 黒い色彩が水の中をぼんやりと広がっていくような、そんな気分にさせられる。
ハインリヒの胸を、靄のような何かが包んだ。
「シュヴァルツ!」
「・・・何だ?」
 その瞳の色は、既にいつもの傍若無人なものに戻っている。
 そして、来た時と同じように、シュヴァルツは早足で皆の元に戻っていった。

 戻ってきた時、ハインリヒがひどく不機嫌になっているのに、皆が驚いた。
「私が少しからかったら、怒ってしまって・・・」
 笑いを含んだ声でシュヴァルツが言うと、
「あら、アルベルト。またシュヴァルツさんに苛められたの?」
 パタパタと扇で顔に風を送りながら、侯爵夫人が笑った。
 皆が、朗らかに笑う。
 そんな中、ジェットが気遣わしげな視線を向けてきたが、ハインリヒはフイと横を向き、その視線を無かったものにした。



  〜 秋の午後・了 〜




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これが導入部分になるかと(笑)。
ハインさんと黒様の力関係が、何となくお分かりいただけたかと思います。
これから色々書いていきたいのですが、
性別の壁にぶつかることが多そうだなぁ、と思っております。






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