雪の朝
ある朝、ハインリヒが目覚めると、カーテンの向こう側が妙に明るかった。 寝過ごした訳はないがと思いながら窓の外を見て、ハインリヒは納得した。 灰色の空からひらりひらりと雪が舞い落ちてきており、辺りを白く染めていて。 その雪明りのために、いつもより外が明るく見えるのだ。 「美しいな・・・」 窓の外の景色に瞳を細めながら、ハインリヒが学校に向かう仕度をしていると。 ジェロニモが静かに、部屋の中に入ってきた。 「どうした?」 『ハインリヒと共に雪見をしたいから、学校を休んで俥で迎えに来て欲しい』とのシュヴァルツからの依頼を、ジェロニモは口に上らせた。 なんという我侭な依頼なのかと、ハインリヒは呆然した。 「本当にシュヴァルツがそんな事を言っているのか?」 尋ねると、ジェロニモはコクリと頷いた。 ハインリヒは、チラリと窓の外の風景に視線をやった。 先ほど賞賛したように、確かに、今朝の雪景色は美しかった。 黙ったまま自分の決断を待っているのだろうジェロニモに、ハインリヒは声をかけた。 「学校には電話をかけて、オレが風邪で休むと伝えてくれ。父上・母上には知られないように。それから建場で信用の出来る車夫を雇って、俥の準備を。オレは、建場まで自分で歩いていく」 ジェロニモは驚いたように、主人の白い顔に視線を当てた。 いつもはただ白いだけのその頬は今、微かに、赤く火照っていた。 そして、常日頃は静かな光を湛えているその瞳も、どこか輝きを帯びていた。 「それじゃあ、後は頼んだぞ」 降りしきる白い雪の中へとハインリヒは歩を進めた。 冷たい風が、その火照りを冷ますようにして、ハインリヒの頬を撫でる。 雪の中を歩いているというのに、不思議と寒いという思いは出てこなかった。 ジェロニモが建場に手配した俥に乗り、ハインリヒはシュヴァルツの家へと向かった。 人の気配が少なく、どこか閑散としているその家の前に、ガラガラと音を立てながら俥が到着する。 門の前にグレートらしき人影が見えたのだが、俥が到着する頃にはその姿は無く、ハインリヒは暫くじっと、雪が降っては積もっていく様を見つめていた。 やがて、グレートが掲げる傘に守られるようにして、黒いスーツ姿のシュヴァルツが現れた。 目が合った瞬間、彼はその頬に柔らかな笑みを浮かべてハインリヒの名を呼んだ。 「アルベルト・・・」 その声音に、ハインリヒは自身の鼓動が少し、早まったような気がした。 しなやかな仕草で、シュヴァルツがハインリヒの隣に腰を下ろすと、俥は不安定に揺れた。 その揺れが、自分の心の中の動揺を表しているような気がして、ハインリヒは慌てて口を開いた。 「今日は何故・・・?」 「父と母が、急に出掛けねばならなくなってな。一人になったら、どうしてもお前に会いたくなったのだ。学校があるということは分かっていたのだが・・・お前と共に、この美しい雪景色を愛でたいと思ってな」 いつになく素直な調子でシュヴァルツが言うので、ハインリヒは拍子抜けした。 一人になったから・・・?淋しかったというのか、このシュヴァルツが。 クスリとハインリヒが笑うと、シュヴァルツは少し、不機嫌そうな表情になった。 「・・・何が可笑しい?」 「いや、何でも・・・」 俥は既に、走り出していた。 車夫に行き先を尋ねられ、ハインリヒは答えた。 「どこでもいい。行けるところまで行ってくれ・・・!」 その時に浮かんだシュヴァルツの笑みに、ハインリヒは彼もまた、同じ気持ちであることを知った。 俥にかけられた帆の隙間から、時折、雪が飛び込んでくる。 帆についている小さな窓の外では、チラチラと雪が降る様子が見えるだけだった。 不意に、雪がひとかけら、ハインリヒの目蓋に止まった。 「おや・・・」 シュヴァルツがその雪を認めて声を上げ、思わずシュヴァルツに顔を向けたハインリヒは、自分の目蓋に水の滴が伝うのを感じて、反射的に目を閉じた。 隣で、シュヴァルツが身じろぐ気配がし、冷たい指先が、ハインリヒの目蓋を拭った。 目を開ける頃合を見計らうことが出来ずハインリヒが戸惑っていると、指は目蓋から離れ、顎の線を辿った。 「・・・アルベルト・・・」 低く奏でられたその調べに、ハインリヒの心臓はドクンと脈打った。 「シュヴァ・・・」 呼び終わる前に、やはり冷たい指先が、ハインリヒの唇を滑った。 そして次の瞬間、ハインリヒの唇を、柔らかく温かな何かが塞いだ。 ・・・口付けられているのだ・・・。 そう理解するまでに、少しの間があり。 シュヴァルツの舌は一瞬の躊躇を逃さずに、ハインリヒ歯列を割って入り込んできた。 ガタガタという俥の揺れが二人を引き離そうとしたが、いつの間にかハインリヒの後頭部にはシュヴァルツの手が回されており、二人の唇は重なったままだった。 絡め取られ、クラクラと眩暈がする。 ハインリヒは思わず、シュヴァルツのスーツの袖を掴んだ。 ようやく解放され、ハインリヒがグッタリと椅子の背に凭れると、シュヴァルツは薄く笑いながら、微かに汗ばんだ額に口付けを落とした。 そして、窓の外に視線を向けた。 紅い瞳に、微かに光るものが見えたような気がしたが、ハインリヒはその正体を確かめる術も無く、ぼんやりといくつか年嵩の男を見つめた。 互いに黙ったまま、俥が揺れる音だけが、響く。 「帆を上げるぞ」 突然シュヴァルツが言い、ハインリヒの返事も待たずに、起用にに帆を開くいた。 その上に積もっていた雪が、音を立てながら地面へと雪崩れるようにして落ちていった。 何か勘違いしたのか、俥を止めようとした車夫にシュヴァルツが冷静な声で告げた。 「このまま、行ってくれ」 そして俥は、再び速度を上げた。 雪がヒラヒラと、二人に降り注ぐ。 「人に見られたら・・・」 ハインリヒが小声で言うと、 「何の不都合がある?」 そう返された。 落ち着いた様子のシュヴァルツの姿。 ハインリヒは、身体の力が抜けてしまっている自分に、苛立った。 (あの時、思わずしがみついてしまったが・・・。また子供だと思われたのではないだろうか・・・?) その時、 「・・・そろそろ、戻るとしよう」 シュヴァルツの唇から発せられた言葉に、ハインリヒはギクリとした。 (いつものように、自分勝手にオレを引きずろうというのか・・・?) しかし、ハインリヒは戻りたくないとは言えなかった。 そう言えば、それから先はハインリヒが仕切らなければならなくなる。 自分にそれが出来ないかも知れない、と、ハインリヒはそう思い、更に苛立った。 〜 雪の朝・了 〜 |
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2話目に当たる「観劇」については、性別の壁を乗り越えられておりません。
なので、こちらを先にアップ。
この雪の朝のちゅーしーん、ご本家の描写は本当に美しいです!!
私は力不足で、あんなに美しい場面はとても書けません(涙)。
感性がもう、全く足元にも及ばない感じ・・・。
でも、とても好きなシーンなので、一生懸命には書きました。
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