雨音の中(前編)




 ある日ハインリヒが学校から戻ると、礼服を着た母親が出かけようとしているところだった。
「何かあったのですか?」
 尋ねるハインリヒを玄関の隅に引き寄せて、彼女は囁いた。
「シュヴァルツさんのご結婚の件で、勅許が降りたのよ。私はお祝いにいってきますが、お前も行きますか?」
 勅許・・・!
 その言葉を聞いた瞬間、ハインリヒは自分の背筋をゾクリと何かが駆け抜けていくのを感じた。
「オレは行きません。シュヴァルツによろしく。」
「お前はシュヴァルツさんをあまり好かないかも知れないけれど、お祝い事なのだから喜んであげなければいけませんよ」
 ハインリヒを軽く諭しながら、けれども強要する事はせずに。
 侯爵夫人は慌しく出かけていった。

 玄関に一人取り残されたハインリヒは、そのまま自室へと下がった。
 勅許。
 その言葉が、頭の中をグルグルと駆け巡る。
 今なら分かる。
 シュヴァルツが、グレートが、頻繁に手紙や電話を寄越してきた意味が。
「勅許が降りる前に、オレに許しを請いたかったのか・・・?」
 白皙の頬が僅かに緩み、ハインリヒは一人、微かに笑んだ。
 あのシュヴァルツが。
 ハインリヒに許しを請おうと、必死になって手紙を書くなんて・・・。
 勅許が降りたというのならば、最早シュヴァルツは、内親王の物だ。
 それが分かっていながら、ハインリヒは今、強く思った。

 オレは今、シュヴァルツに恋をしている。

 そう思うと居ても立ってもいられなくなり、ハインリは大きな音を立てながら、自室のドアを開いた。
 季節は、間もなく夏を迎えようとしていた。
 紅葉山に繁る木々は、初夏の太陽の陽射しを浴びて、青々としていた。
 ハインリヒは、どこか清々しい気持ちで眼下に広がる景色を眺めた。



 恋をしているという感情は、ハインリヒを思いもかけない行動に走らせた。
 ハインリヒは自分の心の赴くままに、コズミ家へと向かった。

 コズミ家の門へは、ボグート家の西洋風の馬車は入れない。
 古風な門構えのその家の前に辿り着き、ハインリヒはホッとした。
 コズミ家の門は閉ざされており、我が家の馬車の姿も見当たらなかった。
 ハインリヒは車を引いてきた車夫にグレートを呼びにやらせたが、グレートはなかなかハインリヒの前に現れなかった。
 初夏の陽射しが、徐々に傾いてくる。
 傾きかけてもなお、その光は目映く、微かに揺れる木々の葉を照らし出した。
 車の背凭れに身体を預けながら、ハインリヒはぼんやりとその様子を眺めていた。
 やがて、車夫を従えたグレートが現れ。
 ハインリヒの姿を認めた瞬間に、その表情が固くなった。
 鷹揚に、ハインリヒはグレートを手招いた。
「久しぶりだな、グレート。話がある。どこか人目のない場所へ行こう」
 グレートの瞳に、微かに拒絶の色が浮かんだ。
「申し訳ありませんが、今は大変忙しいので・・・」
「話があると言ったんだ。聞こえなかったか?」
 ハインリヒが厳しく言うと、渋々といった体で、グレートが車に乗り、車夫に行き先を告げた。



 車が辿り着いた場所は、あまり大きくもない、二階建ての家だった。
 スルリとグレートがその中に滑り込み、ハインリヒも慌てて後を追う。
 離れの一室にハインリヒを誘って。
 そしてグレートが、ハインリヒに向き直った。
「若様。我輩にお話とは?」
「お前の手引きで、シュヴァルツに会わせて欲しい」
 単刀直入にハインリヒが告げると、グレートは大袈裟に両手を広げて見せた。
「ご冗談を。今頃になって、何を仰いますやら。我輩共の若様にお会いになって、今更一体、どうしようというのです?」
「どうしようと、オレの勝手だ。とにかく、会わせて欲しい」
「もう、何もかも遅すぎます」
 グレートが静かに、頭を振った。
「シュヴァルツ様が最後に書き送った手紙にさえ、若様からはお返事をいただけませんでしたな?我らが若様は、既に、覚悟をお決めになっておられます。今更、御心が動くとは到底考えられません。お目通りは、叶わない事かと存じますが?それがお気に召さないと言われるのなら、この我輩を打つなり足蹴にするなり、お好きになさればよろしい」
 何としてもグレートは、ハインリヒをシュヴァルツに会わせない気のようだった。
 ハインリヒは、小さく肩を竦めた。
「まだ、遅くはない」
「いいえ、遅いと申し上げております」
 じっと、ハインリヒはグレートを見つめた。
 ハインリヒは・・・一つの、切り札を持っていた。
 既に破り捨ててしまった手紙・・・。
 あれを、活かすのだ。
「シュヴァルツの最後の手紙・・・。あれを、宮家にお目にかけたらどうなると思う?あれは確か・・・勅許のお願いを出した後に書かれた手紙だったな」
 ハインリヒの目の前で、グレートがサッと、顔色を失った。
 二人の間に、沈黙が流れる。
 ただひたすら、ハインリヒは待った。
 やがて、グレートが顔を上げた。
「分かりました。一度だけお会わせしましょう。その代わり、手紙は確かに、お返しいただきたい」
 グレートの言葉に頷きながら、
「シュヴァルツと会うことが出来れば、その後で返す」
 そう、ハインリヒは答えた。



  〜 続く 〜




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久々更新です。
待っていてくださった皆様(おいでになるのか?)、お待たせしました。
肝心の部分は、後半になります〜。
なんかハインさんが、ただの我侭息子みたいでスミマセン。





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