父の怒り(後編)




 一方、ハインリヒは家族揃っての夕食の時間に、納采の儀が12月に執り行われることを知った。
 父母はこの件にひどく関心を持っているらしく、各々好き勝手に、ああだこうだと話を進めている。
 出来うる限り平静を装いつつも父母の話に聞き耳を立てながら、ハインリヒは己の心臓が大きく波打つのを感じた。
 全てを終わらせようとする足音が、聞こえてくる。
 静かに、けれども着実に、その足音はハインリヒに向かって進んできていた。
 勅許が降りたと聞いた時に感じた、『恋をしている』という昂揚した気分は既に失われていた。
 恋という言葉よりも、今はもっと深く。
 深い分だけ重く、シュヴァルツへの想いはハインリヒにのしかかってくる。

 ハインリヒはいても立ってもいられずにグレートに電話をかけたが、今は会わせる事が出来ないとの一点張りだった。

 十日ほど後、一度だけシュヴァルツに会う機会があった。
 ハインリヒの顔を見た瞬間、小さくため息を吐いて。
「あまりグレートを困らせるものではないぞ、アルベルト?」
 そう言って笑ったシュヴァルツの声に表情に、ハインリヒは互いの想いは同じであることを知った。
 けれども、それが何になるだろうか?
 内親王殿下とシュヴァルツの結婚は、最早、取りやめることなど出来ない。
 また一歩、終わりの足音が近づいて来たのを、ハインリヒは痛いほどに実感した。
 互いにほとんど口も聞かないまま。
 二人は先が全く見えずに不確定な、次の約束をして別れた。



 最後にシュヴァルツに会ってから、無為に日々が過ぎていく。
 ハインリヒはグレートと連絡を取ろうとしたが、病で臥せっていると返事だった。
 それから数日して再度電話しても同様の返事だったので、グレートが嘘を申し立てているのではないかとハインリヒは疑った。
 ある日の学校帰り、ハインリヒはふらふらとコズミ家を訪れた。
 けれども、コズミ家の呼び鈴を押すことが出来ず、打ちひしがれながらハインリヒは帰宅した。
 帰宅し、部屋に入ろうとしたハインリヒを執事が呼び止めた。
「若様。侯爵様が若様と撞球をなさりたいと、撞球室でお待ちでございます」
 ざわっと、胸がざわめいた。
 父侯爵がハインリヒを撞球に誘う時は、夕食後に限られていた。
 こんな異例の命令を下す父は、上機嫌でそうしているのか、はたまた反対の理由なのか。
 ハインリヒが撞球室のドアの前で佇んでいると、キューを握って球を狙っていた父が顔を上げた。
「入ってドアを閉めろ」
 言われるがままにして、ハインリヒは侯爵に近づいた。
「その手紙を読むんだ」
 キューの先端で指し示された手紙を、手に取った。
「これは・・・?」
「グレートの書置きだ」
 震える指先で、ハインリヒは手紙を開いた。

『ボグート侯爵殿
 この書状が侯爵様の目に触れる時は、我輩は既にこの世にはおりませぬ。
 実に罪深い行いの償いとして、我輩の下賎な命を捧げ、ただただ懺悔しお願いする次第でございます。
 当家の若君シュヴァルツ様におかれましては、内親王殿下とのご結婚が進められているにも関わらず、殿下ではない方に想いを寄せていらっしゃった次第。
 その方との逢瀬を新聞記者の何某と申す者に押さえられ、秘する事の代償として金銭を要求されておりまする。
 若様に無断で伯爵様にもご相談申し上げましたが、ご存知の通りコズミ家には過分の金銭はございませぬ。
 記者を放置し月日をおけば、秘密が世間に漏れるのも時間の問題かと存じます。
 何卒侯爵様のお力で、全てを穏便に済ませていただきたく、お願いする次第でございます。
 今回の件は全てこのグレートの不忠の成すところでございますが、御内輪のことでござますし、侯爵様に何卒、何卒、良き御対策をお願いいたしたく存じ上げます』

 読み終えたハインリヒは、父を見上げた。
 頭がずきずきと痛み、唇はからからに乾いていた。
「読んだか?」
 父の言葉に、ハインリヒは頷いた。
「内輪のことだから、という下りを読んだか?」
 ボグート侯爵の声は、怒りを纏ってだろうか、微かに震えていた。
「いくら親しくしているとはいえ、コズミの家と我が家とでは内輪とは言えない。しかし、グレートは敢えて内輪という言葉を使っている。お前に何か申し開きがあるのならば、今私の目の前で言ってくれ。もし私の推測が間違っていれば、私はお前に謝る。父親として、こんな推測はしたくなかったのだが・・・」
 尻すぼみで消えていった父の言葉を引き取るようにして。
「お察しの通り、シュヴァルツの相手はこのオレです」
 真っ直ぐに父を見つめたまま、ハインリヒはそう言うことができた。
 ボグート侯爵が、わなわなと震えた。
 何か言おうとして口を開いたが、それは言葉にならなかった。
「それでもとにかく、誰が何と言おうと、シュヴァルツはオレのものです」
「オレの物だと・・・?馬鹿を言うな!シュヴァルツは内親王殿下のものだ・・・!!」
 父侯爵は激昂しているようだった。
「あれと内親王殿下のご婚儀が進められていることを知りながら、お前はこのような行為に及んだのか?答えろ、アルベルト!!」
 避ける間もなく、ボグート侯爵が手にしていたキューが、ハインリヒの背をしたたかに打った。
 闇雲に振り回されたキューはハインリヒの鼻先に当たり、鼻血が溢れてきた。
「何事なの?」
 不意に、凛とした声が撞球室に響き渡り、キューはそれ以上、ハインリヒを追ってはこなかった。
 侯爵とハインリヒの視線の先には・・・侯爵の母でありハインリヒの祖母であるヒルダが立っていた。
「アルベルトが不始末をしでかしたのです。そのテーブルにあるグレートの書置きをお読みください」
「グレートが自害でもしでかしたというの?」
「仰るとおりです」
 父と祖母とが会話をしている間に、公爵夫人がハインリヒに駆け寄り、ハンカチを差し出した。
 真っ白はハンカチは、ハインリヒの血でしとどに濡れた。
 手紙の頁を繰って、ヒルダがボグートに視線を移した。
「この手紙には、アルベルトの名前は一言も出ていないじゃないの」
「内輪云々の下りで、あてこすりだという事は一目瞭然です。それにハインリヒも、相手が自分だと白状しました。母上は、もう一人、孫をお持ちになろうというわけですよ。それも、日陰者の孫をね」
「アルベルトが誰かを庇って嘘の告白をしたかもしれないわ」
「では、母上様が直接お確かめになればいかがか?」
 若草色の瞳が燃え立つような光を湛えてハインリヒを見つめた。
「アルベルト。今、お父さんが言ったことは本当なの?」
 真っ赤に染まったハンカチを手に、ハインリヒは迷いなく答えた。
「本当です」
 それを聞くな否や、ヒルダは穏やかに笑んだ。
「流石はアルベルトはお祖父様の孫だわ。宮様の許婚と懇ろになるなんて、天晴れよ。今時の腰抜け男には出来ないことだわ。それだけのことをしているのですから、今回の件で牢に入ることになっても本望でしょう。まさか死刑にはならないでしょうしね」
「何て事を仰るのです!」
 ギョッとしたようにボグートが叫んだ。
「それではボグートの家は破滅です。父上に申し訳が立ちません!」
「それもそうね」
 ヒルダは軽やかに応じた。
「あなたが考えることは、今はアルベルトを罰することではないわね。家を守ることをお考えなさいな」
 その場にいるハインリヒを無視して、周りの人間が話を進めていく。
 ハインリヒは一人取り残されたような気分になりながら、ぼんやりと話を聞いていた。
 たった今・・・。
 己の愛も恋も、ハインリヒは全てを奪われてしまったような気がした。


〜 父の怒り・了 〜




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辻褄合わせに終始してしまった感が・・・。
物語も佳境・・・なのか??
お婆様のシーンがすごく好きです。








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