別れ





 グレートは一命を取り留めた。
 父母の会話の中に、ハインリヒはそれを読み取った。
 今一度、シュヴァルツに会うことが出来たら。
 何度もそんなことを考えて。
 グレートの助けを借りるのが一番の方法だと思われたが、ハインリヒはそれを躊躇った。
 あの書置きで、グレートは主人であるシュヴァルツを裏切ったのだ。

 父のボグート侯爵はコズミ伯爵に会いに行き、口封じを請け負ったらしい。
 そして、ほとぼりが冷めるまで、シュヴァルツの身柄は月修寺で預ることになったようだ。
 ハインリヒを取り残したまま、周りだけが性急に動いていく。

 コズミ家は、シュヴァルツが月修寺に身を隠すことに同意したが、それに伴い、ひとつだけ条件が出された。
 シュヴァルツが東京を発つ際に、ハインリヒに会わせて欲しい、という条件だ。
 豊かに蓄えた白い髭をひねりながら、コズミ伯爵が侯爵に願い出たらしい。
 二人きりで、とはもちろん言わない。
 双方の親立会いの上で一目会わせてもらうだけで構わないし、この願いが叶えば、シュヴァルツは二度と、ハインリヒには会わない。
 親として、この願いは是非叶えてやりたいと、柔和な顔に真摯な色を滲ませて。
 コズミ伯爵が言ったので、ボグート侯爵はそれを承知せざるを得なかった。
 シュヴァルツが月修寺に身を寄せる際、伯爵夫人と公爵夫人が行程を共にする。
 母である公爵夫人の見送りに、息子であるハインリヒが足を運んだとしても、なんら不自然な事は無いのだ。
「アルベルト。母上が旅行に行く際に、お前は見送りに行くように」
 父侯爵に命じられ、ハインリヒは軽く頭を下げてそれに答えた。



 出立の日、ハインリヒは母の供をして駅へと向かった。
 二人は早めに到着したが、肝心のシュヴァルツと伯爵夫人の姿はどこにも見当たらない。
「まだお見えでない・・・。何かあったのかしら・・・?」
 ソワソワと落ち着かない母に、ハインリヒは言葉をかけた。
「時間にはまだ余裕もありますし、じきにやってくるでしょう」
 自分が今、シュヴァルツに会いたいのか否か。
 ハインリヒには、それが分からなかった。
 これからシュヴァルツの顔を見るのが怖いような、そうでないような。
 ただただ、胸がざわめいている。

 やがて汽車がホームに到着し、ハインリヒは母の荷物を持って指定された席まで持っていった。
 荷物を荷棚に上げたタイミングで、
「あら・・・!」
 母が小さく声を上げた。
「コズミさんがいらっしゃったわ」
 ハインリヒが窓の外に視線を向けると、コズミ夫人とシュヴァルツが連れ立って歩いてくる姿が見えた。
 漆黒のスーツに身を包み、シュヴァルツは落ち着いた仕草で歩を進めている。
 初秋の陽射しが黒いスーツに降り注ぎ、不思議な色合いを作っていた。
 汽車に乗り込んできたコズミ夫人は、母に詫びの口上を述べた。
 シュヴァルツは押し黙ったまま、優雅な仕草で緋色の座席に腰を下ろした。
 言葉をかけることも出来ずに。
 ハインリヒは、シュヴァルツが遅れてきた理由が分かったような気がした。
 互いに言葉も無く過ぎていく別れの時間の苦しさを、少しでも短くしようと思ったからに違いない。
 ハインリヒは、チラリとシュヴァルツに視線を当てた。
 自分は、シュヴァルツの全てを知っている。
 どんな風に愛を囁いて、抱きしめてくるのか。
 身体を重ねる際に見せる、少し苦しげでいてどこか恍惚とした表情。
 誰も知らないシュヴァルツを・・・。
 オレは、知っている。
 シュヴァルツもまた、誰も知らないハインリヒの全てを知っているはずだった。
 黙ったまま、シュヴァルツはぼんやりと窓の外に視線を向けていた。
 その紅い瞳に自分の姿が映らない・・・。
 ハインリヒはそのことに、微かに焦燥を覚えた。

 突然、ホームの外で汽笛が響き渡った。

「そろそろ汽車が出るな。アルベルトはもう、降りなければ」
 どこまでも落ち着いた声音で、シュヴァルツが呟いた。
 その時シュヴァルツは、ひたとハインリヒを見つめた。
 伯爵夫人に簡単に挨拶をした後、
「・・・気をつけて」
 ハインリヒは周りに不審に思われないよう、出来るだけ快活を装いながらシュヴァルツに声をかけた。
 胸の奥はこんなにも苦しいのに、こんなに軽く挨拶が出来る自分を、ハインリヒは不思議に思った。
「ありがとう。アルベルトも元気で・・・。それではな」
 ごくごく自然に伸ばされた褐色の指が、サラリと愛おしげにハインリヒの髪を梳いた。
 フッと、紅い視線が揺らいで。
 指先がハインリヒの髪から離れる。

 ハインリヒが汽車から降りると、駅長が空に向けてサッと手を上げた。
 それを合図にするかのようにして、汽車がホームを滑り出てゆく。

 心の中でただひたすらシュヴァルツの名を呼びながら、ハインリヒは遠ざかっていく汽車を見送った。



  〜 了 〜




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この場面、さとこさんの「ごきげんよう」がとても好きなんです。
ご本家には遠く及びませんが、気合い入れてお別れさせてみました。







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