春の雪
**原作とほぼ同様の終わり方です。苦手な方はお読みにならないようご注意ください**




 ハインリヒから借金を申し込まれたジェットは、驚いた。
 親友は、ひどく思い詰めたような顔をしていた。
 白皙の頬が、青ざめて見えるほどに。
 ジェットは父の教育方針で、自分の自由に出来る貯金を持たされていた。
 何も聞かずに、ジェットはその貯金全てをハインリヒのために用立てた。

 晴れていて、けれどもひどく寒い日の朝、ジェットはその金をハインリヒに渡した。
「始業まで、まだ時間があるな。見送りに来てくれるか、ジェット?」
 金を受け取ったハインリヒが、どこか遠くを見つめながら、そんなことを言った。
「どこへ?」
 学校の門は、ボグート伯爵の下男が張っている。
 それを知っていたジェットが尋ねると、フッと唇の端を緩めたが、答えはなかった。
 最近はぼんやりとしがちだったハインリヒの瞳に、しっかりとした意思の光を認め、ジェットはそれを快く感じた。
 ハインリヒが軽く咳込んだのが、ジェットにはいささか気になった。
「身体は大丈夫なのかい?」
「少し風邪気味だが、問題ない」
 ハインリヒはジェットの先に立ち、先だって降った雪を踏みしめるようにして進んだ。
 その足取りは快活で。
 ジェットは友の行く果てを薄々感じ取ったが、口にはしなかった。
 きしきしと音を立てながら、二人は雪の上を進む。
 誰も踏んでいない雪の中に、ともすれば足が取られそうになる。
 けれども、ハインリヒはその先に道があるのだというかのように、歩みを止めることはなかった。
 太陽の日差しが、白い雪をきらきらと煌めかせた。
 やがて、二人は学校の東端に辿り着いた。
 ああ、と、ジェットは合点がいった。
 この場所の鉄条網は、破れたまま補修されていないのだ。
 鉄条網の先には、白く雪で覆われた道が続いていた。
 その道を歩いて・・・ハインリヒは行くのだ。
 ハインリヒの淡いブルーの瞳が、ジェットを見つめた。
 今日の空の色のように、澄み切った青だと思った。
「行ってくる」
 ハインリヒが告げたのは、誇らしげな出立の言葉だった。
 友がこんなにも青年らしく晴れやかにその言葉を口にしたことを、ジェットは心に刻み込んだ。
「気を付けて・・・」
 ありきたりの返事しかできないジェットに、ハインリヒは小さく頷いて見せて。
 鉄条網の破れを広げるようにして、するりと身体をその破れ目に入れた。
「・・・ハインリヒ!」
 真っ白に輝く道を遠ざかっていく背中。
 制服の上に纏っている黒いコートが、答えの代わりにヒラリと風に揺れた。
 その道の果てに待つものは・・・。
 ギュッと唇を噛み締め、ジェットはその場所から歩き出した。
 間も無く、始業時刻だ。
 授業の内容などとても・・・今日のジェットの耳には入ってこないに違いないが・・・。



 ジェットから借りた金で、京都まで辿り着いたハインリヒは、月修寺が建っている場所から一番近い宿に部屋を取った。
 部屋を取ってすぐに、俥を呼んで月修寺に向かった。
 門の前で俥を降り、参拝道を歩いて辿り着いた玄関の外から声をかけると、寺男が出てきて用向きとを聞いてきた。
 ハインリヒが用件を告げると男は寺の中に引っ込み、入れ違うようにして、ピュンマが現れた。
「住職は会わぬと言っておいでです。ましてや、御弟子は人に会うことはありません」
 板に水が流れるように事務的に、ピュンマは言ってのけた。
 ある程度予想していた反応だったので、ハインリヒはその日はそのまま、引き上げることにした。
 その日、ハインリヒは久々にぐっすりと眠った。
 シュヴァルツがすぐ側にいる、という思いで、ハインリヒの心は穏やかに凪いでいた。
 焦ることはない。
 シュヴァルツに、一目でいいから会いたい。
 この唯一無二の望みが叶えられるよう、何度でもお願いにあがればいいのだから。
 二日目も俥を門前に待たせ、ハインリヒは月修寺に足を運んだ。
 午前に一回、午後に一回と寺を訪れたが、寺側の対応は前日と少しも変わらなかった。
 肩を落としながら、ハインリヒは帰路に着いた。
 目の前にシュヴァルツがいるというのに・・・。
 そう思うと、もどかしくて仕方がなかった。
 シュヴァルツという男は、一度決めたことを決して覆すことはない。
 そのことに、ハインリヒはあえて気づかない振りをしていた。
 自分でも、無意識に。
 参拝道を下りながら、ハインリヒはひどく咳込んだ。
 胸の奥がじくじくと痛み始めたような気もして、その日はすぐに就寝した。

 三日目は、どうにも身体の具合が悪くて仕方なくなった。
 けれども体調が悪いのを押して行く外、シュヴァルツに会う道はないと思われて。
 ハインリヒは俥も頼まず、寺までの道のりを歩いた。
 東京を出立した日と同じように良く晴れたひだったが、ハインリヒは美しい青空や周りの景色を愛でる余裕もない。
 歩く度に咳は酷くなり、胸の痛みもナイフを刺すようなものになってきた。
 案内を請うている時もハインリヒは激しく咳込んだが、出てきたピュンマは、同じく断りの口上を述べただけだった。

 四日目に寒気がしたと思ったら、熱が出てきた。
 ハインリヒはそれでも寺まで足を運んだが、前日と同じように断られ、為す術もなく宿に戻った。
 体調の悪化と共に、ハインリヒの望みも耐えかけていた。
 このまま、シュヴァルツに会うことが出来ないのではないか・・・?
 ハインリヒはとうとう、友に頼った。
『スグキテホシイ。タノム。オビトケノクズヤニイル。フボニハゼッタイシラサナイデクレ。 ハインリヒ』

 寒気と熱にうなされながら長い夜を過ごし、ハインリヒは五日目の朝を迎えた。

 この日は、粉雪が舞う天候だった。
 体中が軋み、指先一本上げるのも億劫だった。
 気が遠くなるような時間をかけて、ハインリヒはようやく、布団の上に身体を起こした。

 ・・・どうしても、行かなければならない。
 今まで、シュヴァルツが与えてくれる愛の中で安穏と過ごしていて。
 こちらの方から、誠を見せたことがなかった。
 例えまた断られても、シュヴァルツに対して、己の誠意を見せなければならない。
 
 宿の者に俥を呼ばせようとしたが、当然ながら引き止められた。
 自分が元気であることを証明するために、ハインリヒはその目の前で、制服と外套を身に纏ってみせた。
 ハインリヒはようやく、俥に乗り込むことができ、雪の中を俥が走り出した。
 ひらひらと宙を舞う雪が、幌の隙間から俥の中に入り込んでくる。
 シュヴァルツとの雪見の朝に思いを馳せ、ハインリヒの胸が疼いた。
 それは、病からの疼きとは全く違うものだった。
 ハインリヒは襟巻で鼻先までを覆って、おもむろに前の帆を上げた。
 次から次に、雪が降り込んできたが構わなかった。
 熱を持つ額に落ちが雪が、透明な液体へと瞬く間に姿を変えた。
 やっとの思いで手袋に包まれた指を上げ、ハインリヒはその液体を拭った。

 やがて俥は、月修寺の門前に辿り着いた。
 門から玄関先までの道のりを思い、ハインリヒは自分がそこまで辿り着けるかに不安を感じた。
 俥で玄関まで行っても良い。けれども・・・。

 オレが歩いて行けば、今日こそシュヴァルツに会わせるという算段に寺側ではなっているかも知れない。
 それをオレがのうのうと俥で玄関先まで行ったら・・・。
 寺側の考えが変わってしまうかもしれないのだ。

 ハインリヒは強く思った。

 それに、俥で玄関先まで行き、そこでシュヴァルツに会えなかったら、オレは一生、自分の誠意が足りなかったとその行為を悔いるだろう。
 オレの誠意を・・・見せなければならない。

 俥を降りて、ハインリヒは雪の中を歩き出した。
 ひらりひらりと優雅に雪が舞うが、今のハインリヒには雪の降る美しさを愛でる余裕もない。
 一歩一歩を踏みしめるようにしてハインリヒは歩いた。
 時折立ち止まって咳くと、口の中に錆びのような味が広がった。
 シュヴァルツに会うために、自分は命をかけているのだと、ハインリヒはぼんやりと思った。
 足を一歩前に進める度にシュヴァルツに近づいているのだ。
 それだけを思いながら、ハインリヒは歩いた。
 一瞬。
 空が開けて地上に一筋、光が射した。
 その光に向かって歩くのだと、ハインリヒは熱に浮かされた頭で考えた。

 寺の玄関先まで辿り着くと、安堵の思いでハインリヒはその場に崩れ落ちた。
 その時に激しく咳いたため、すぐさまピュンマが現れた。
 ハインリヒを助け起こしたピュンマの手が、震える背中を撫でた。
 シュヴァルツの手のひらが自分の背を撫でているのだと、ハインリヒは夢うつつに思った。
 慌しくピュンマは奥に戻り、男の声で早口の会話が聞こえてきた。
 しかし、再度現れたピュンマは、やはり一人だった。
「やはり、お目にかかることは叶いません。何度いらしても同じことです。寺の者をお供させますので、お引取りください」
 大柄な寺男に抱えられるようにして、ハインリヒは俥に戻された。
 もう、何も考えられなかった。
 俥の中で、ハインリヒは重い目蓋を閉じた。

 ジェットがハインリヒの滞在する宿に到着したのは、その日の深夜だった。



 ハインリヒからの電報を受けたジェットは、父母にその電報を見せた。
 卒業試験が、三日後に迫っていた。
 このような際の旅行を当然両親は反対すると思われたが、電報を見せられた父が何も聞かずに「行け」と行った事が、ジェットには意外だった。
 父はジェットに、友情の大切さを教えようとしているのだろうか?

 ジェットが宿に辿り着くと、ハインリヒは弱々しく布団に横たわっていた。
 すぐさま東京に連れ戻そうとしたジェットに、ハインリヒは懇願した。
 明日、なんとしてもジェットに月修寺に行ってもらい、住職に直々に会って欲しいのだと。
 住職は、第三者の言葉ならば耳に入れるかも知れないのだ。
 そして許しが出たならば、この身体を月修寺に運んで欲しい。
 熱っぽく訴えるハインリヒにジェットはとうとう折れ、自分が断られた場合は潔く諦めるよう約束させてから、月修寺に赴くことを請け負った。
 部屋の中をランプの黄色い灯かりが照らしている。
 論理学のノートを開きながら、ジェットはぼんやりとその字面を追っていた。
 だが、どんな単語も全く頭の中に入ってこなかった。
 ノートの先では、熱のために白皙の頬を薄紅色に染め上げているハインリヒの姿があった。
 この友の内部には指一本触れることが出来ないのだと、ジェットはノートから目を離しながら思った。
 自分も人並みの感性は持っているし、友情も知っている。
 けれども、ハインリヒのように心の中に情念の炎を宿すことはできない。
 何事にも無関心に近かった友の変化にジェットは驚き、けれどもそれもハインリヒらしいと思った。
 再び、ジェットはノートに視線を落としたが、やはり何も、頭に入ってこなかった。

 翌日。
 約束どおりに、ジェットは月修寺へと向かった。
 熱で潤んだ目で、ハインリヒが訴えるような眼差しをジェットに送った。
 一刻も早くハインリヒを東京に連れ戻したいと思っているジェットは、今日は適当に寺に当たろうと考えていたが、ハインリヒの目を見て思い直した。
 
 ハインリヒのために、自分に出来うる限りのことをしよう。

 思いながら寺を訪ねたジェットは、座敷に通されたことを意外に感じた。
 本当に僅かだが、ハインリヒをシュヴァルツに会わせることが出来るかもしれない、という希望もわいてきた。
 しかし、座敷に現れたのは住職一人だった。
「東京からいらしたとか?」
「ハインリヒの学友のリンクと申します」
「本当に、ボグートの若さんもおいとしいことよ。だけど・・・」
「ハインリヒは病気で臥せっています。電報を貰い、自分がハインリヒに成り代わってお願いに来ました」
 友のために、ジェットは必死になって訴えた。
 ジェットが貸した金で旅に出たハインリヒが重態になってしまい、両親に申し訳なく思いながらも、東京に帰るよりももっと切実にハインリヒが望んでいる事を叶えてやりたいと思っていること。
 不吉だが、ハインリヒがもう二度と良くならないような気がしていること。
 切々と話した後、住職の目をまっすぐに見据えながら、ジェットは尋ねた。
「ハインリヒの願い、どうしても叶えてはいただけませんでしょうか?」
 住職は、うっそりと目を閉じた。
 黙って、何かを考えているようだった。
 返事を待っているジェットは、襖一枚隔てた先の部屋から、低い嗚咽の声を聞いたように感じた。
 ハッとその方向に視線を走らせたが、白い襖が邪魔をして、その先に何も見ることは出来ない。
 住職がようやく、口を開いた。
「この世では二度と、ボグートの若さんには会わない。それは、シュヴァルツが仏さんの前で誓ったことよ。そう誓った時から、仏さんが二人を会わさんようにしてるのと違いますか」
 凛とした眼差しに、ジェットは希望が全て潰えたことを知りながら、重ねて尋ねた。
「やはり、許してはいただけないのでしょうか?」
「はい」
 張住職の短い返事には、それ以上の反論を許さぬような威厳が込められていた。



 東京へ帰る汽車の中でもハインリヒは苦しげで、ジェットはいたたまれない気持ちになった。
 一秒でも早く東京に着きたいと気が焦るばかりで、勉強も手につかない。
 熱に浮かされているハインリヒの額に乗せた布巾を取り替えてやりながら、ジェットは思った。

 あの時、ハインリヒの出奔を助けたのは、本当に正しい行為だったのだろうか・・・?
 ハインリヒは目的も果たせず、ただ重い病を得ただけで東京に戻ろうとしている。
 
 汽車は、早朝に東京に着く予定だった。
 夜はすっかり更けていて、ジェットが窓の外に視線を走らせても、何の景色も見ることはできなかった。
 時折、小さく灯かりが見えるような気がするのは、人家の明かりだろうか。
 ハインリヒが、苦しげに呻いた。
 慌てて、ジェットはハインリヒに身体を寄せた。
「ハインリヒ、どうした?」
「胸が・・・ナイフで刺されるように痛むんだ・・・」
 切れ切れに、ハインリヒが訴えた。
 為す術もなく、ただ胸の辺りを擦ってやることしか出来ない自分に、ジェットは苛立った。
 汽車内のほの暗い灯かりの中で、ハインリヒの表情は苦痛に歪んでいた。
 けれどもその表情は・・・苦しみながらも、どこか美しく感じられた。
 ジェットは、なんとなくハインリヒから目を逸らした。

 うとうとと、ハインリヒは浅い眠りの中を漂っているようだった。

 やがて目を開けたハインリヒは、しっかりとした眼差しでジェットを見つめ、その手を握った。
「ジェット。お前の友情に感謝する。ありがとう」
 手を握り締めている力が、強くなった。
「夢を見ていたんだ。オレ達は、また会う。滝の下で、きっと」
 静かに目を閉じて、ハインリヒは再び、夢の中を彷徨い始めたようだった。
 
 ハインリヒは夢の中を漂いながら、我が家の庭の滝に帰っているのだろう・・・。
 あの、秋の日のように。

 小さくため息を吐いて、ジェットはハインリヒに言葉をかけた。

「オレも・・・キミの友情に感謝するよ」

 汽車は時折大きく揺れながら、ひたすらに進んでいき、やがて目的地に辿り着くだろう。
 その時、ハインリヒは・・・。
 
 先のことは考えないようにして、ジェットはただ、友の寝顔を眺めていた。




  〜 了 〜




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これにて、44春の雪は終わりです。
原作の色を大切に、ということで、こんな終わり方になってしまい、申しわけありません。
原作の最後の一文は入れないようにしよう、思い、それを実行してしまったので、
ちょっと尻切れトンボっぽいラストになりました(汗)。
長々とお付き合いくださった皆様、本当にありがとうございました!!
少しでも楽しんでいただけたのならば、望外の喜びです。

この後の原作も、ジェット(本多くん)はハインリヒ(清様)に振り回されっぱなしです。
2巻ぐらいまでなら美しく楽しくお読みいただけると思いますので、よろしければお試しください。
私は、3巻・4巻は本多さんが哀れ過ぎてもう読めません。

お気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、この話、意識してシュヴァルツ視点では書かないようにしてみました。
(原作でさとこさん視点がほとんどなかったため、いっそ・・・と思って徹底してみました)
いつかシュヴァルツ視点の44春の雪がやりたいな、というのが、私の密かな野望です。
(↑もうやるな、という感じですが(笑))





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